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グレートブリテン王国の政治家初代オーフォード伯爵
ロバート・ウォルポールRobert Walpole
1st Earl of Orford,
ジャン=バティスト・ヴァン・ロー画(1740年)
生年月日1676年8月26日
出生地 イングランド王国 ノーウォーク州・ホートン
初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(英語: Robert Walpole, 1st Earl of Orford, KG, KB, PC、1676年8月26日 - 1745年3月18日)は、イギリスの政治家、貴族。
1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ政権(あるいはホイッグの参加した政権)で閣僚職を歴任した。1720年の南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年に第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年の総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。
概要ロバート・ウォルポール(ジャン=バティスト・ヴァン=ロー画)。
1676年にイングランドのホートン(英語版)に地主の三男として生まれる。イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学。兄が死去したため、代わりにウォルポール家の財産を相続した(→生い立ち)。
1701年に父が議席を持っていた選挙区から立候補して庶民院議員に当選。ホイッグ党に所属して時のトーリー党政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力を見せつけて庶民院内で急速に頭角を現した(→政界入り直後の野党期(1701-1705))。1705年の総選挙(英語版)で与野党の議席が伯仲化した結果、ホイッグ議員が閣僚に登用されるようになり、ウォルポールも海軍本部委員会委員、ついで戦時大臣に就任した。しかしその後世論のホイッグ批判の高まりや1710年の総選挙のホイッグの敗北などによりホイッグ閣僚が次々と辞任に追いやられ、彼も1710年10月に辞職した(→政府への参加(1705-1711))。その後再び庶民院でトーリー政府批判を展開したが、政府に危険視され、1712年1月には汚職行為を働いたとされて議会の議決によりロンドン塔に投獄された。しかしこれにより反政府派から英雄視され、ホイッグ内で権威を高めた(→汚職容疑でロンドン塔に投獄(1712))。
1714年にハノーヴァー朝のジョージ1世が即位するとトーリーが退けられてホイッグ政権が創設され、ウォルポールも陸軍支払長官(英語版)に就任。また議会において前トーリー政権責任追及の中心人物となり、前政権首脳陣をジャコバイトとして徹底糾弾し、ホイッグ優位体制の確立に貢献する。1715年には第一大蔵卿に就任してホイッグ政府の最有力閣僚の一人となる。しかしその後国王やジェイムズ・スタナップのハノーヴァー優先外交を批判したことで1717年4月には下野に追い込まれた(→ハノーヴァー朝成立で政権復帰(1714-1717))。
その後スタナップ政権に対して激しい野党活動を展開し、それに耐えかねたスタナップは、1720年6月にウォルポールを陸軍支払長官として再登用した(→スタナップ政権に対する野党期(1717-1720))。直後に発生した南海泡沫事件ではバブル発生当時政権におらず責任追及される立場にない閣僚として後処理を指揮した。この事件中に多くのホイッグ有力政治家が辞職に追い込まれたり、死去したりしたため、ウォルポールが主導権を握る政権が誕生することになった(→政権復帰と南海泡沫事件(1720-1721))
1721年4月に第一大蔵卿に就任。